おれたちの住んでいる世界は、
おれたちが知っているたったひとつの世界だ。
そこでの喜びはなかば義務づけられた喜びにすぎない。
その世界を超えたなら、
ただの無、何も残らない。
死は何も語りかけてはくれないだろう。
おまえが熱心に切望している世界は、
すでにおまえが持っているじゃないか。
時々おまえは、あてにならない夢に誘惑されてしまう。
とらえどころのない実体に寄りかかろうとしてしまう。
形のない愛、
風に舞う真実、
不規則な正義とは、
いいかげんに手を切ってしまえ。
感性という名の底知れぬ自尊心が
おまえの愚かさをいっそう際立たせる前に、
その忌わしい幻を焼き払え。
誕生、労働、死、
その循環回路のどこに引っかかっていようとも、
おまえの忍耐と冷静が限界にきたら、
立ち止まって振りかえるがいい。
永遠に実体のともなわない労働などくそくらえだ!
遊園地の閉館時間につじつまを合わせるような
消費行為などくそくらえだ!
おれは密かに考えた。
「連中にはついていかない。
ついていかなくても不安じゃない」。
連中が念入りにしくんだ架空の悲劇のなかで、
損な役回りを演じるほどゆとりがない。
おまえは連中が取り込んだ神話の、
目もくらむような豊かさにためいきをついているが、
それと同時に、お前自身の生の充実は、
絶えまなく放棄されている。
おれはけっして公明正大な人間じゃない。
だれも公明正大な人間ではない。
ある心地よい緑の風が薫る頃、
彼女は、「ベルネーズソース」と叫びながら、
台所へ駆けこんでいった。
そしてあまりにも退屈な自分の人生に嫌気がさして、
一日中泣いた。
しかしほんとうに価値あるものは、
君が台所で作りだすもののなかにある。
世界でいちばんありふれたホイップクリームは
君のなかで求心的だ。
味に変わりばえのしないスープもまた君のなかで求心的だ。
君がくちずさむ唄の愛らしさのなかで君は発酵する。
君の嘆きが裸になるとき、
君は自らの神になる。
お湯の沸騰する音が君の名を呼ぶ。
棚に整頓された食器たちが、君の哀しみを歓迎している。